徳島商 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
魚 津 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
徳島商]板東−大宮 | [魚津]村椿−河田 |
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<戦 評>
私の生前の試合を語るのは非常に恐縮ですがお許しください。昭和33年8月16日。いまもなお語り継がれる世紀の大熱戦は第40回選手権大会10日目、準々決勝第4試合目でした。この日は第一試合から熱戦。高知商2−0平安、作新学院2−1高松商(延長11回)、柳井4−3海南と息詰まる熱戦が続きいよいよ第4試合へ。第四試合は北越代表の出場二回目の魚津と南四国代表の出場五回目の徳島商と共に海を望む地域同士の対戦となります。
試合は初回、徳島商がチャンス。二死2塁として4番:板東がレフト前ヒット。2塁走者が3塁コーチャーの制止を振り切って本塁突入もレフトからの返球を村椿がカットし、バックホーム。走者は本塁寸前でタッチアウト。徳島商が先制のチャンスを逃しました。 一方の板東は気負いからかコントロールが不安定ながらも、持ち前の快速球にドロップ(縦に割れるカーブ)で三振を築き、尻上がりに調子をあげ両軍無得点のまま8回を終了。 9回表、徳島商は一死2塁のチャンス。ここで迎えるバッターはまたまた板東。板東の打球はショートゴロ。2塁走者が飛び出し2,3塁間で挟殺されタッチアウト。この隙に板東が2塁を狙ったが、板東の滑り込む足にタッチし、ダブルプレー。一瞬にしてチャンスが途絶えました。
試合はついに延長へ。この回から照明が点灯になり、両チームの純白のユニフォームが一層、光り輝いたといいいます。十回、十一回、十二回・・・・と投げ合いが続き、ついに十八回。十回から十八回まで両チームが出した走者は魚津が4人。徳島商が3人。いずれも2塁を踏めない緊迫した投手戦。スタンドも魔術にかけらたように静まりかえり、かたずをのんで見守ったそうです。この時のアナウンサーの言葉は「両チームとも負けてもらっては困ります、あと一回です」と叫び続けてたそうです。 ピンチを脱した魚津はその裏一死後、河田がライナーでセンターオーバーのヒット。河田は1塁、2塁と駆け抜け3塁へ向かったが打球がフェンスに当たり、打球の追いかけたセンターの前に跳ね返る幸運。その幸運をしっかり生かした徳島商の連携に阻まれタッチアウト。そして最後の打者も三振にとられついに0−0ののまま、試合が終了。再試合となりました。 この試合の主審:相田氏は「ああなったら、どちらも負けさせたくない..選手達の死にものぐるいの意気で涙が出そうで....都市対抗、高校野球と十年アンパイアをやってきましたが、こんな胸の詰まる試合は初めてです。喉も枯れて、最後は声が満足に出ませんでした..」と語るほど、緊迫した試合だったんですね。 翌日の再試合では徳島商:板東が先発したが、魚津:村椿は連投の疲れからか前日の夜は「ユニフォームを着たまま寝てしまい、その姿を見たら可哀想になって、投げさせることが出来なかった...」(宮武監督)とレフトに退き、1年:森内の先発。4回に一点を取られたところで村椿に交代したが、試合は3−1で徳島商が勝利。 ついにこの北国の*1無名チームは敗退したが魚津の活躍は「蜃気楼旋風」と評され、ヒーロー:村椿には「泣くな!村椿」という名言が投げかけられました。
*1 無名チームというのは若干語弊があります。全国ではさほど名は通っていなかった魚津:村椿投手です が、北陸球界ではそのコントロールはかなり有名だったそうです。確かに本大会では1回戦で浪商を完封し2回戦の明治戦を打撃戦でもぎ取り、3回戦の桐生戦では再度、完封での8強。フロックではなかったと思います。 |
徳島商 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | |
魚 津 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 |
徳島商]板東−大宮 | [魚津]森内、村椿−河田 |
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この大会から延長18回引き分けのルールが制定されましたが、その制定の発端が春の四国大会の徳島商。板東が延長20回を投げた翌日にまた延長22回を投げている姿を四国連盟の役員達が健康管理上、好ましくないとのことで、高野連本部に進言しルールが制定されました。タフな選手だったんですね。
また、裏を返すとそれだけ打てない好投手が四国に多かったんだろうと想像してしまいます。 最後に...いろいろな資料を眺めて文を打ってましたが、頭の中で描写すると、当時の光景が思い浮かび、ジーンと感傷的になってしまいました |