第43回選手権: 報徳学園 対 倉敷工


■選手権43回大会 1回戦

倉敷工
 
報徳学園
×
7×
[倉敷工]永山、森脇、永山−槌田 [報徳学園]酒井、東−高橋

<オーダー>
       [倉敷工]               [報徳学園]             

 

氏名

打数

安打

打点

三振

四死球

板野

※1

森脇

※5

国方

中村

槌田

鎌田

松本

土倉

白川

高橋

1-5-1

永山

             
             
             

 

45

13

※は途中出場 

 

氏名

打数

安打

打点

三振

四死球

内藤

磯江

※4

小田

※6

奧野

※H-4

平塚

大野

藤田

6-2

清井

吉村

高橋

谷口

※H-9

貴田

酒井

※1

 

44

13

※は途中出場 
      

<戦 評>

大会3日目のこの日は3試合全てが延長戦という史上初の(銚子商2−1法政一、崇徳3−2武生)珍しい記録が立てられた日でもあります。その記念すべき日に、後世に語り継がれる奇跡の逆転、倉敷工 対 報徳学園戦が第二試合で対戦しました。
試合は倉敷工:永山、報徳のサウスポー:酒井の双方譲らない投球で試合は淡々と進み、両チーム無得点のまま延長戦に。                                           

延長11回、倉敷工は猛攻を開始、一死後に中村が四球を選び、槌田が相手のエラーで出塁すると鎌田も四球で一死満塁。ここで松本がレフトオーバーの2塁打を放ち2点先制。更にスクイズで加点すると、報徳は集中力が切れたかエラーと相手にダブルスチールを許し、倉敷工は一挙6点を挙げました。          

延長戦で6点を先に奪われる...これはもう勝機なんて考えられない展開で、勝負は99%、いや100%倉敷工が勝つと予想するでしょう。場内も後は報徳学園がどう最後のあがきをするのか程度の雰囲気だったと思います。                                            

しかし、報徳ベンチは諦めなかった。沢井監督は代打に平塚を起用。平塚は気迫で内野安打で出塁。デッドボールで一死1,2塁とすると、清井の内野安打で1点。吉村の内野ゴロで2点を返し反撃します。しかし、この時点で二死2塁。勝負はもはや決まったの感があり、ネット裏の記者席でも「倉敷工、2回戦へ」の報が電話で話されていたそうです。ここで倉敷工が投手の永山をサードに退かせ、エースの左腕:森脇がマウンドへ目先を変えるためなのか?あと一人というところでの交代。しかしこの交代がこれから起こる同点劇、逆転劇の布石となります。

交代した森脇は高橋と谷口をフォアボールで出塁させ二死満塁とさせてしまい、貴田にレフト前ヒットを放たれ6−3。慌てた倉敷工はここで永山を再びマウンドに。しかし、11回を投げつづけ、一度休んだ肩は元に戻らなかった様です。恐らく、投手としてのモチベーション、緊張感も落ちていたんでしょう、球威がなく、東がレフト前に運びまたも満塁。ここで一番の内藤がセンター前に運び2者生還し6−5。もはやスタンドは興奮のるつぼ、異様な興奮とざわめきに包まれたでしょうね。                     

あと1点。ツーアウト。ここで向かえるバッターはこの回に代打で起用された平塚。凄まじい歓声の中、平塚の打球はセンター前に転がった。2塁走者の東は3塁ベースを蹴って、本塁へ。倉敷工:センターの鎌田は前進し必死のバックホーム。タイミングは!と思った瞬間、ボールは捕手のミットをかすめバックネット方向へ抜け、ついに6−6の同点。ついに報徳学園は追いついた。

こうなったら追う者の強み、しかも後攻の強み。報徳学園は次の回の延長12回に藤田が2塁打を放つと貴田がライト前にサヨナラ打を放ち死闘に終止符を打ちました。                   

「勝負は最後までげたをはいてみるまで判らない」をまさに言葉通り表した試合です。このような大逆転劇は2度と見られないのではないでしょうか?

勝負の分かれ目となった倉敷工の投手交代。あと一人で勝利と言うときに何故、交代をしたのか。それには訳がありました。倉敷工の背番号1は森脇が背負っていた。エースは左腕の森脇だったのである。しかし、そのエースは予選前の練習中に松本主将と衝突し、右肩鎖骨を骨折していた。予選では1試合も投げられず、甲子園ではどうしても投げさせて欲しいという松本主将の願いを小沢監督が汲んだ場面があと一人での場面だった。この温情は非情な甲子園では実を結ばなかったが、倉敷工の選手全員は試合後、森脇投手が甲子園のマウンドを踏めたことに対し、「監督ありがとうございました。負けたけど、森脇が甲子園のマウンドを踏めたことで一生気を重くしないですんだ」という感謝の言葉を小沢監督に言ったそうです。小沢監督も、「あの時の選手の気持ちがそれからの監督生活の支えとなった」と昭和50年にユニフォームを脱いだ時に振り返った。

2002.2/5


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